労働はじめました

こんにちは。ろくろ(名字)こん(名前)です。

 

僕もついにですね、みんなやってる労働というのに今年の4月から手を染めてしまいました。

そのせいか何人かのフォロワーに22歳と間違われましたが、僕は浪人して大学院にも行ったのでもう25歳です。今度の土曜日、5/16には誕生日を迎えて26歳になります。

 

誕生日……?

 

全然話は変わるんですけどね、最近amazonのほしいものリストを公開用に新しく作ったんですよ。

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2U5YLZTG9U8XL?ref_=wl_share

 

どうですか?

 

話戻りますが、もう労働を始めて一ヶ月が経ちました。まだ新卒研修をやってる段階なのであんまり学校と変わりません。むしろグループワークをめっちゃやらされるので中学生のころをなんだか思い出します。

僕はかなり人見知りするし上がり症だし仲良しな人以外と話してると精神的に疲れてしまうタイプなので、グループワークやったり発表したりっていうのを頻繁にやらされるのはしんどいですが、一応ソフトウェア開発者として採用されているのでまあ普通の仕事に比べるとそういう研修は少なく、プログラミングの勉強したりなんか動くもの作ったりみたいな研修もあるのでけっこう楽しいです。

 

しかし、こうやって就職して社会人になってみると、若干浮世離れしていた大学時代に比べて世の中の様々なしきたりを意識する機会が増えますね。たとえば、就職祝いとか……

 

https://www.amazon.jp/hz/wishlist/ls/2U5YLZTG9U8XL?ref_=wl_share

 

……?

 

ところでほしいものリストの話ですが、リストにないものも送れるらしいですよ!

 

 

社会人になったとはいえ、コロナの影響でずっとリモートワークなので未だに一度も出社してません。まあ研修施設が僻地なのでむしろラッキーに思ってますが……。

勤務するようになったら人形町の辺りに通うことになります。今まであまり行ったことのないエリアなので楽しみです。東京駅まで行けばキャラクターストリートもあるし。

初めてオフ会に行った時の話

以前ブログで少し書いたけど、初めてオフ会をした時のことを書いてみようと思う。もう6年も前のことなので正直あんまり記憶がないけど。

 

19歳の3月、当時僕はオフ会をしたがっていた。高校生のころ清く正しい陰湿インターネットマンだった僕はずっとオフ会どころかインターネットの人と通話することすら叩いていたが、19歳ごろになってやっと「ツイッター上だけの関係に時間を浪費するのは無益すぎるし、友達くらい作ったほうがいいのでは?」と考えを改め、インターネットで友達を作ることに積極的になっていた。

 

当時、僕には「あるぱか」という仲の良いフォロワーがいた。彼はけっこういろんな人とオフ会をしてて慣れてるっぽかったし、お互い東京に住んでたし、僕のことを「ふぐ刺しドリル」、縮めて「ふぐドリ」という謎のあだ名で呼ぶこと以外は初めてオフ会をする相手としては良さそうだった。ちなみに、当時の僕のユーザー名は「まるまる」であり、特にふぐ刺し要素もドリル要素もない。

 

なんだかんだあって4月(たぶん4月、ツイッターのログを確認したけど自信ない)あるぱかからサンシャイン水族館のもうどく展に行かないかと誘われた。けばけばしい色の変な生き物を見に行きたいとは全然思わなかったけど、せっかくのチャンスなので行くと伝えた。あるぱかに宮田さんも誘う?と聞かれていいよと答えた。宮田さんは今でも相互のフォロワーで、今も当時も変な男だけどすごく良いヤツである。

 

人見知りが激しい性格だった僕は前日からものすごく緊張していた。やっぱりオフ会なんてやめておけばよかったかもと何度も思いつつも、なんとかこの試練を乗り越えよう(?)みたいな気持ちになっていた。当日はタワレコの5階で待ち合わせようと言われた。何の目印もないし待ち合わせには不便だと思ったけど、まあオフ会ってそういうものなのかな、もし相手がヤバそうな人だったら逃げやすいし(?)と考えながらCDを眺めて待っていた。今思うと音楽好きなあるぱかがオフ会のついでにCD買いたかっただけだと思う。

 

広いし人も多いのですれ違う人全員に対して(もしかしてこの人なのかな……?)と考えているうちに、変な汗がめちゃくちゃ出てきた。緊張しすぎて胃が痛かった。連絡が来てあるぱかを探し回っていると、それらしき人がいた。トルコ人っぽいなと思った。トルコ人なんて一度も見たことないのに失礼な話だ。今トルコ人の画像を検索してみたけど全然似てなかった。あとで本人がツイッターポール・マッカートニーに似ているとよく言われると話していて、たしかにそっちのほうが正しいなと思った。

 

その後すぐに宮田さんとも合流して、もうどく展を見に行った。やっぱり黄色のカエルとか反転模様のフグとかに特に”萌え”を感じることはできなかったし、そもそも話すので精一杯でそれどころではなかった。あるぱかはツイッター上での雰囲気とあまり変わらなかったけど、宮田さんはツイッターに比べておとなしかった。たぶん宮田さんも緊張してたんだと思う。出た後併設されているタリーズに行ったような気がする。カフェもめったに行かなかったので注文するとき緊張したな。出口に水族館特有の海の生き物のガチャガチャがあって、クリオネを出した……たぶん。緊張しすぎてたせいか全然覚えてない。

 

 

まあ、そんな感じです。最近昔の記憶が薄れているのをよく感じるので、備忘録も兼ねて今後はときどき今回みたいな昔話をブログに書くかも。

【自分語り】僕と勉強

僕は普段、あまり自分の進路選択の理由を人に話さない。

それは真面目な話をするのが恥ずかしいからというのもあるし、自分はモチベーションが複数あることが多いので正確に説明するのが難しいというのもある。

でも、今回は学生の終わりというひとつの区切りを迎えたので高校から大学院卒業まで、自分が勉強について考えていたことをできるだけ書いてみようと思う。

 

高校

高校生のころ、僕は本気で勉強するのはコスパが悪いと考えていた。学生時代を犠牲に自分の限界ギリギリまで頑張って学歴社会のミルフィーユを一段登るのが、人生をトータルで見て本当に良いことなのだろうか?自分は幸いにも勉強がそこそこ得意で、ろくに勉強せずともMARCHくらいにはいけそうだった。まあまあの学歴で、そこまで頑張らずとも周りの人たちよりちょっと出来が良い人間として評価される世界で穏やかな生活を送るのが幸せなのではないか。

一方で、僕は自分には勉強くらいしか取り柄がないとも思っていた。僕は身長は低いし、コミュ力もないし、オタクだし、目も悪いし、足は遅いし、顔も良くないし、人としての魅力がほとんどなかった。当時僕のことを好いてくれる女の子が一人だけいたが、きっと勉強もできなくなったらいよいよ何の価値もなくなった僕は見放されてしまうだろうと怯えていた。

ただ、この頃は希死念慮が強く、自分は成人する前に死ぬと信じて疑わなかった。死ぬのが怖くてあと一歩を踏み出せずにいたが、自分の理性は数年のうちにはきっと本能に打ち勝ち、この苦しい世界を終わらせるだろうから、勉強なんてするだけ無駄で残された時間を楽しむのが有意義な過ごし方である。

 

結局この頃僕は勉強に対して強い意味を見いだしていなかった。国立に落ちた時点で自殺しようと決心していたが、じっと電車を見つめるばかり結局あと一歩を踏み出すことはできなかった。受験が終わった時点で告白しようとも考えていたが、浪人することになったので一年後に先送りにした(当時は「勉強しか取り柄のない人間を好きになるような相手が、浪人中に告白なんかして喜ぶわけがないから」と理由づけていたが、今思い返すと怖かっただけかもしれない。それから一応言っておくが、相手が僕のことを好きだというのは僕の思い込みではない。そんなにヤバいやつではない)。

浪人

この記事の主題ではないので詳細は省くが、この一年は人生で最もつらい時期だった(この一年は今でも僕の性格や人生に大きな影響を与えているので、いつか書けたらと思う)。勉強どころではなく、予備校をサボって太宰治を読んでばかりいた。結局理科大に行くことになった。

大学

入学した時点で大学院受験のことを意識してはいた。まあ、6年間も田舎に通うのは嫌たし、学費も半分になるし、学歴厨である親戚一同も少しは浮かばれるだろうという軽い気持ちではあったが。

 

大学生活が進むにつれて、ある種のもどかしさが募っていった。僕はもともとパソコンとかインターネットが大好きで情報科に進んだ人間だったので、同じようにプログラミングやハードウェアに興味を持つような友人を期待していたが、残念ながらなぜか僕の周りはなんとなくこの学科に来たけどパソコンとか興味ないという友達が多かった。友達としてはすごく良い人たちで今でも仲良くしているけど、活動を行う環境としては不満だった。また、本当にこのままぬるま湯に浸かってていいのか?という疑問と、自分が本気でやってどこまで通用するのか試してみたいという気持ちが燻りはじめた。

 

一番の転機となったのは、正確な時期は忘れたが、たぶん三年生になる前の春休みに、当時付き合っていた彼女に「ろくろくんが頭良いのは知ってるけど、やればできるけどやらないみたいな態度はダサいよ」と言われたことだった。彼女は地元の中学の同級生だったので、僕が”全然勉強してないけどけっこう点取れたわ”みたいな感じでイキってる嫌な奴だということをよく知っていた。僕自身がちょうど今のままでいいのか悩んでいたこともあり、この言葉は強烈に僕を後押しした。それに、彼女は彼女自身が不器用なほどに真面目に頑張る性格で、その性格が好きで影響を受けていた僕にとって彼女の言葉はとても大きかった。まあ彼女には2ヶ月後にフラれたけど。もともと専門科目の増える三年生からは勉強に本腰を入れようと予定していたこともあり、ほとんどのサークル活動をやめ僕は勉強に多くの時間を割きはじめた。専門科目はどれもおもしろく、やはり自分はこの分野が好きだと確信し真剣に研究したいという気持ちも高まった。3年後期には周りにも大学院受験することを話し始め、春休みは図書館にこもり受験勉強とパズドラに集中した(この時に僕は、自分がおとなしく教科書を読み問題を解くことだけに集中するのは真面目とか本気とかの問題ではなく原理的に無理なのだと悟った)。元カノの言葉がずっと頭の中でリフレインしていた。

 

受験本番は圧倒的高得点というわけにはいかなかったが、まあたぶん受かっただろうくらいの点数は取れて、東工大に行くことになった。

大学院

受かりはしたが、問題はここからである。僕の目的は、興味のある研究の世界に飛び込んでみるということを除けば「やればできる子であることを証明すること」と「自分が本気で頑張ってどこまでいけるのかを知ること」である。大学院受験に受かったことで多少は達成できたかもしれないが、一般に、大学院受験は同じ学校の学部を受けるより受かりやすい。僕の受けた専攻の場合、だいたい外部生で落ちるのは半分、内部生で落ちるのは1割くらいだったから、まあ入学後ずっと遊んでいたような人たちよりはマシである程度のことしか言えない。なにかしら、胸を張って自分はこの学校の同級生の大半より優秀だったと言えるような成果を出す必要がある。というか、大学院受験は学歴ロンダリングと揶揄されることがあり、プライドの高い僕としてはなあなあで卒業して最終学歴が変わっただけみたいな形になって叩く隙を見せるのは絶対に嫌だった。

 

ここで問題になるのは、一年分のハンデである。理科大でも東工大でも、研究室に最初に配属され研究を行うのは大学四年生である。大学院進学時にもう一度振り分けはあるが、基本的には同じ研究室に進み、三年間同じ研究室にいることになる。それに対して院進すると当然研究室が変わる。特に僕の場合、学部時代の研究室は進学先の研究室と全く違う分野だった(その上、教授が今年退官で全然やる気がなくほとんどまともに研究しないまま終わった)。一応進学先が決まった4年後期には週2で進学先の研究室のゼミに参加し勉強してはいたが、それでも普通3年かけて勉強するものを修士の2年間でやる必要があった。

 

入学後、僕は土日も含め毎日最低8時間は勉強/研究することを自分に課した。平均的な学生は週に40時間くらい研究するだろうと見積もり、3年分を2年でやる僕はその1.5倍費やさないといけないので土日を含めて週56時間である。残りの4時間は4年後期の貯金で賄えるだろうという計算だった。流石にこのルールを完全に守れたかというと微妙だが、それでも今までにしたことのない量を勉強した。かなり苦しんで投げ出そうと思うことも多かったが、研究は興味深く楽しくやりがいがあった。最終的にはふたつの学会で受賞し、分野で最難関の国際会議にも論文が採択された。研究そのものだけでなく、フロントエンドやバックエンド、AWSも多少勉強して研究のデモを作って会社で実際に使ってもらったりもした。立ち上がったばかりの研究室だったのでサーバーの導入や管理、ネットワーク環境の整備などもした。振り返ってみて、僕が自分に期待していたほどではなかったけれど、それなりの能力は示せたんじゃないかなと思う。

おわりに

この数年間はそれなりに満足している一方で、多くの後悔もある。特に、今の彼女と付き合いはじめた修士一年の11月以降は8時間ルールも全体的な勉強量も落ちてしまった。彼女がいなければ精神的にしんどい研究生活を続けられなかったとも思うのでしょうがないことではあるが、それでも自分がもっと精神的に強ければより多くのことを学べただろうと思うと悔しい。もっと基礎をしっかり勉強していれば理解も深まっていただろうし、研究ももっと手数を多くできればより良いものになっただろうと感じている。努力もまた才能であり、自分はその才能にはあまり恵まれておらず、それが自分の限界なのだと思い知った。また理解力や記憶力に関してもこのレベルだと普通程度でしかないのだと思い知ったし、特別研究の才能があるわけでもなかったし、特別エンジニアリングの才能があるわけでもなかった。僕は人より少し勉強ができて少しコンピュータが好きなだけの凡人だった。

 

とはいえ、僕の過去に棲む亡霊をいくらかは倒せたように思う。それに、僕はやはりコンピュータサイエンスが好きだと確認できたこともよかった。この数年を通して人生に対する絶望もさらに深まり、いよいよ死ぬのが一番マシな選択肢だと改めてわかったけれど、どうせ死ねないのだから少なくとも開発や研究をやっていて楽しいと感じられるこの世界で生きていけたらなあと思う。

【日記】 リバッタル

今日は10日ぶりに研究室に行きました。

修論発表が終わって卒業がほぼ確定してから、しばらく研究や雑務から離れていろんな人と遊んだり旅行したりゲームしたりしていたのでひさしぶりです。なぜか休んでるのにメンタルがバッド入ってましたが……。

今朝国際会議に投稿していた論文のレビューが返ってきてたので、とりあえずそれを読んでいました。自分が論文を投稿した学会では、一度査読者のレビューを受け取った後、リバッタルと言って反論の機会が一度だけ与えられます。リバッタル後に論文を採択するか否かの最終的な判断が下されます。

リバッタルを行うには当然レビューに含まれる批判的な意見に目を通す必要があります。これがけっこうしんどい作業で、特に僕のように初めて論文の査読を受ける人にとって自分の研究のだめなところを列挙され、それを読み込むのは精神にクるものがあります。隣の席に座ってる博士課程1年の先輩も、初めて受けた査読のレビューは辛くてまともに目を通せなかったそうです。

幸い、自分は研究に対する批判とかにはけっこうずぶといというか、もともと自己肯定感が低いからか批判されても「まあ所詮僕のした研究だし……」ってなってそこまでダメージを受けないので、つらかったもののなんとか読み進めることができました。想像より評価が高くて、うまくいけば採録されそうなスコアだったのもあるかも。フォロワーに不穏な空中リプライされたりいいねがいきなり激減して「なんか気に障ること言っちゃったかな……。」ってなるほうがつらかったですね。ツイッターやめてえ……。

とはいえ、しばらく遊び呆けていたので頭があんまり回らず十分な反論を書ききることはできず、そもそもまだ日本語で書いてて英語で清書もしないといけないので、明日もリバッタルに費やすことになりそうです。大学院とかいう精神破壊施設がよ……

ゲームしてるだけ

数日前に僕のゲーム垢でこんなツイートをしました。

 LoLっていうのは世界一プレイ人口の多いゲームで、eスポーツとしてプロの試合の観戦も人気です。僕もよく観戦してます。

上のツイートの通りLoLはやめてしまったんですが、リア友がツイートに反応してフォートナイトに誘ってきたので今日はフォートナイトをやっていました。

フォートナイトって知ってますか?PUBGとか荒野行動と同じジャンルの、100人で殺し合って最後に生き残った人が勝ちというゲームです。

フォートナイト特有の要素としてクラフトというのがあって、その場で壁を立てたり階段を作ったりできて、それがすごい重要で瞬時に適切に配置して防御したり足場を作ったりしないといけないんですけど、これが難しくて、すぐミスって蜂の巣にされて死ぬんですよ。許せねえ……

それはそれとして、リア友と通話しながら4人でゲームしたのは楽しかったです。

ディズニーシーに行きました

修論発表も終わり、一応ほぼ卒業が確定したということでディズニーシーに行ってきました。

ディズニー自体は去年上海で行ったのですが、東京ディズニーシーは10年ぶりくらい。

新アトラクションのソアリンにも乗りました。

昔は友達が絶叫系好きだったこともあっていつもひたすらジェットコースターとか乗ってた(センター・オブ・ジ・アースに一日で二回乗った記憶もある)んですが、今回はそのへんはあまり回らず、他のアトラクションを中心に回りました。 何度か来てるはずなんですけど、アトラクションどころかエリア自体が見た記憶がないところがけっこうあったので、いろいろ回れてよかったです。

自分へのおみやげとしてジェラトーニくんをお迎えしてきました。

僕が写真を撮るのが下手なせいでFXで有り金を全部溶かした人みたいな表情になってますが、かわいいです。

修論発表終わりの助

こんばんは、修論発表終わりの助です。

修論発表が終わりました。

ついに自由の身になったので今日はひたすらゲームをしていました。

しばらく忙しい時期が続いていましたが、少なくともこれから4月まではけっこう暇なのでよかったら遊んでください。

これからはブログも毎日書こうかなと思っています。